中川優也について

「29歳、年収1,800万円」
こういう人を見て、あなたはどんな生活を想像しますか?
「好きなものを好きなように買っている」
「高級車を乗り回している」
「お金の不安や問題など無く幸せに暮らしている」
こんな風に思ったのでは無いでしょうか?では、その状態にあった私が実際はどんな生活だった
かあなたに包み隠さずお伝えしましょう。
毎朝、胃ごと口から出そうなくらいのとんでもない吐き気とともに目が覚めます。

「起きたくない」

これが1日のはじめに浮かぶ言葉です。布団から出たくないのです。吐き気を抱えたまま、何度 も何度も寝返りを打ちますがそんなことは何の抵抗にもなりません。仕方なく布団から出て青白 い死人のような顔をして仕事に向かうのです。病院へ行けば間違いなく「うつ病ですね。」と言 われたでしょう。

朝早くから夜も遅くまで馬車馬のように働いていました。休みは週に1日、しかしその休みもい つクライアントや取引先から連絡があるかわからない状況で気が休まりません。子どもと公園で 遊んでいるときに携帯電話が鳴ります。クライアントからのトラブルの電話です。私の表情が曇 り、気分が落ち込みます。家族にも伝わります。「ごめん。」仕事とはいえ家族にも申し訳ない 気持ちでいっぱいになります。

「やめたい」「やりたくない」「でもやらなければいけない」 そんな言葉がひたすら頭の中に浮かんできました。 「家族を養わなければいけない」 私には2歳下の奥さん、3歳の息子と1歳の娘がいました。

「もう二度とあんな惨めな思いをしたくない」
その気持ちだけでやりたくない仕事を、歯を食いしばってなんとかこなしている状況でした。
確かに収入もそれなりにあり、欲しいと思ったものはそれなりに買えました。ベンツにも乗っていました。しかし、私は不幸のどん底でした。

「お金が無くなるかもしれない」という不安は、年収が200万円しか無いときよりも数倍強かっ たです。お金の問題もたくさんありました。

「お金の苦労を終わらせる!」
小さいときからお金で苦労をしてきた私はそう誓っていました。

その誓いの元、ファイナンシャルプランナーの資格を取り、お金の賢い使い方や貯蓄、運用の仕 方を学び実践してきました。
それだけでは無く、たくさん稼ぐためにビジネス関係の書籍を読みあさり、セミナーにもたくさ ん出席し、実践し、高額なコンサルタントを雇い努力してきました。その甲斐もあって収入もど んどん増えました。

お金の不安や問題を解決するためにできる事は全てやりました。 にもかかわらず、お金の不安や問題は消えるどころか大きくなる一方でした。 「なぜこんなことになるんだ。。。」 「もうどうしていいか分からない。。。」

私は絶望していました。

それから1年後です。私にサラリーマンの平均年収以上のお金が毎月入ってくるようになったのは。しかも、以前のように嫌なことを死ぬほど繰り返すようなことをせずとも、自然と入ってくるようになりました。

それが3年続きました。しかしその後、収入が徐々の減り出しました。何をやってもうまくいかなくなりました。私は怒り狂いました。「ようやくお金の問題から解放されたと思ったのに!」

手に入れたものを失う不安で押しつぶされそうになりました。なんというデジャブ。私はまたお金の不安と向き合うことになりました。どんどんお金が減っていく。そしてついには預金残高が残り18,000円になるという事態になりました。それが2019年12月です。

それでもなんやかんやあって2022年6月現在、私は特に何も失わずに生きています。自由に毎日したいことをして生きています。お金はありませんが、お金の不安はほとんどありません。たまに感じてもすぐ消えてなくなります。といっても、収入の当てもなく、風前の灯です。

それでも、私は精神的にとても安定しています。状況に左右されない絶対的な安心を見つけたからです。とても自由です。

私がこれまでどんな人生を生きてきたか紹介します。

生まれてから幼稚園まで

「僕は今から託児所!」

そう叫んで人混みをかき分けながら走り出しました。

3歳の夏。私が住んでいる徳島県では毎年お盆の期間は阿波踊りのお祭りがあるのです。

母親は離婚をし、水商売をしていました。仕事をしている間私と2歳下の弟は託児所へ預けられ ます。

その日も託児所へ向かう途中でした。弟と2人、母親に手を引かれて歩きます。目の前に近所に 住む友達の女の子が現れました。その子はかわいいピンク色の浴衣を着てお母さんと手をつない でいます。

「私今から阿波踊り行くの。」

その言葉を聞いた途端、悔しい気持ち、うらやましい気持ちがこみ上げてきてその場から走り去 ってしまいました。託児所になんて行きたくありません。僕だってお祭りに行きたい。でも、行 けない。その時に私は僕はこんなこともしてもらえないんだ。我慢しないといけないんだ。とい うことを学びます。

楽しいことや、やりたいことをやったら怒られる

同じく3歳のある日、楽しくベッドで飛び跳ねていたと思ったら、次の瞬間ベッドから落ちてい ました。気がついたときには、頭が肘の上に乗っており、起き上がると腕が動かないのです。

仕事から帰ってきて寝ている母親の横で飛び跳ねていたところ、母親が寝られないことに腹が立 ち、私のことを思いっきり蹴ったのです。その結果、ベッドから落ちます。打ち所が悪かったの か腕の骨を折り、そのまま病院へ運ばれました。

私自身子育てをしているので分かるのですが、子どもはとにかく楽しいことが大好きですし、言 うことなんかあまり聞かないです。

今となっては、そりゃ仕事で疲れて帰ってきている時に横でピョンピョン跳び跳ねられたら腹も 立つだろうという母親の気持ちも分かります。しかし、3歳の子にそんなことは分かりません。 楽しく遊んでいただけ、やりたいと思うことをやっていただけなのに、思いっきり怒られて蹴ら れて大けがをした。その時に楽しいこと、やりたいことをやっていたら怒られるんだ、罰を受け るんだ。ということを学びます。

 

 

僕が悪いんだ

 

 

これは両親が離婚する時の話です。

私自身の記憶は無いのですが、母親から聞かされた話です。

離婚の直接の原因は、父親が浮気したうえ、浮気相手と一緒に生きていくと言い出したことにあ るようです。その時、父親も私を連れて行くと言い、母親も子どもは渡さないと取り合いをした そうです。

今であれば「どちらにも大事に思われていたのかな」と思えますが、3歳の子どもにとっては 「僕が原因で両親がケンカをしている」としか思えません。これは、カウンセラーの人に聞いた話ですが、小さい子どもは両親がケンカしたり仲が良くないところを見ると「僕が悪いんだ」と 自分を責めてしまうそうです。この出来事はまさにそうで、僕が悪いんだ。僕に問題があるん だ。ということを学びます。

 

誰も助けてくれないんだ

 

これは4歳の時です。家の近くで遊んでいました。近くに母親がいますが、近所の人と話をして います。

その時、私はコケておもいっきり膝をすりむいたんです。4歳の子どもです。コケてケガをした ら泣きますよね。私は泣いて母親の方を向きました。もちろん、ケガをしたから助けて欲しい、 構って欲しいという気持ちです。

ところが母親が私に浴びせた言葉はこれでした。
「お前が勝手にコケたんだろう!こっち向いて泣くな!」

困っているときに一番助けてもらいたい人、構ってもらいたい人、「大丈夫?痛かったね」と言 ってもらいたい人から突き放されます。困っても誰も助けてくれないんだということを学びま す。

小学校

とにかく何をしても怒られる

 

私の母親はとにかく短気ですぐに怒り、気分も山の天気のようにコロコロ変わりました。そのた め、私も弟もいつ怒られるか分からない恐怖を抱えながら生活をしていました。ほんの些細なこ とでも烈火のごとく怒るのです。

こんなエピソードがあります。

小学校2年生の冬です。こたつに足を入れて、こたつのヒーター部分をトントンと蹴るのがクセ になっていました。それでこたつを壊したわけでもなければ、こたつに乗っているものを倒した りした、つまり何か実害があったわけではありません。ただ、軽くトントンと蹴っていただけな のです。それが母親は気に入らなかったらしく、心の傷でもえぐられたのかと思うくらい怒りだ し「出て行け!」と言い、私を家の外へ放り出しました。

万引きをするとか誰かにケガをさせるとか、家族に大きな迷惑をかけるということで「出て行 け!」と言われるならわかります。そうではありません。ただ、軽くこたつを蹴っていただけです。それで放り出されるのです。5分や10分ではありません。黙って玄関の外で待っていても1時 間以上は家に入れてもらえません。そんなことは日常茶飯事でした。

何をしても怒られるし、気分次第で変わるから何で怒るかが分からない。怒られる、失敗する事 に対して大きな恐怖感を持つことになります。

 

認めてもらえない

 

私は自分で言うのもなんですが、学校での成績も優秀でしたしスポーツも万能で、ずっと学級委 員にも指名されるような、いわゆる優等生タイプでした。

同級生のお母さんなどからも「優也は本当にスゴいなぁ~。」と言ってくれました。

しかし、母親に褒めてもらったり認めてもらうようなことはほとんどありませんでした。「この 子はけなした方が伸びる。けなしてバカにした方が『なにくそ!』といって頑張るから伸び る。」そう言っているのを何度も何度も聞きました。それは確かにそうでした。私は負けず嫌い で悔しい思いをするほど、それを見返してやろうとモチベーションに変えて努力をしていまし た。その結果、成績も優秀で周りから認められるようになったのは事実です。

でも、「よくやったね。」「スゴいね。」「頑張ったね。」と言ってもらいたい人から言っても
らうことはほとんどありませんでした。

とても印象に残っていることがあります。「クラスで1人だけテストで100点を取ったら何でも好 きな物を買ってもらう」という約束を母親としていました。小学校5年生の時にそれを実現する ことができました。得意な算数のテストでクラスで1人だけ100点を取ることができたのです。私 は心の底から喜びました。今までのどの100点のテストよりも嬉しかったです。その日、家に帰 ってすぐ母親にそれを伝えました。でも、母親の反応は驚くほどあっさりしたものでした。

「あぁ、そうなん。よかったね。」

ショックでした。何でも好きな物を買ってもらえるという約束でした。あれを買ってもらおうか な、これを買ってもらおうかな、実際に1人だけ100点を取るのが実現するまでは色々想像しては 楽しみにしていました。でも、これでも認めてもらえない、「よくやったね!スゴいね!」って 言ってもらえない悲しさに、好きな物を買ってもらうことなんかどうでもよくなりました。結 局、家の経済状況などを知っていたのもあって遠慮をしてポテトチップスを一袋買ってもらうこ とにしました。

努力しても認められないんだ。結果を出しても認められないんだ。褒めてもらえないんだ。とい うことが心に強く刻まれました。

 

お金がどういうものかを学んでいく

 

私は両親、特に母親からお金についてポジティブな考えを聞かされることはありませんでした。 例えば、私が母親によく聞かされた話の1つはこんな話です。

水商売をしていた頃、同僚と同じ部屋で生活をしていた。その同僚は平気で財布 から金を抜き取るし、別の同僚はお金を借りたまま返さない。返してくれという と逆ギレをしてくる。

こんな話を何度も何度も聞かされると、「お金はトラブルの元」という認識になるのも当然でし ょう。その話の後は決まって「お金と時間にルーズなやつは人間のクズ」と口走っていました。

私が6歳の時に母親は再婚しました。特に好きではなかったが、それなりに収入があり、働かな くてもよくなるならということで結婚したそうです。私たち子どものことを思ってもあったかも しれませんが、お金のために結婚したのでしょう。

お金のための結婚はどうだったのでしょうか?

義理の父親は大手の企業に勤めていて年収も多いときで1,000万円近くあったようです。朝の5時 には出社して、帰ってくるのは23時や0時を回っていたようです。義理の父親が休みじゃなけれ ば会うことはありませんでした。休みの日、ぐったりしている義理の父親を見て「お金を稼ぐた めには、たくさん働いてしんどい思いをしなければいけないんだな。」と思いましたし、母親も 何度も「一生懸命働いて稼いできてくれている。」と私たちに伝えていました。

義理の父は一生懸命は働き、人当たりも良く、明るい人でした。しかし、彼はギャンブル依存症 でした。パチンコをやめられないのです。与えられた小遣いの中でパチンコをするなら何の問題 もありません。しかし、そうではありませんでした。彼は仕事の取引先から集金したお金を持っ てそのままパチンコへ行っていました。勝てばいいですが、負ければ負けた分を穴埋めする必要 があります。職場にも、家族にもそのことは知られたくありません。そこで、その穴埋めをする ために消費者金融からお金を借りてくるのです。

財形貯蓄を勝手に下ろして消費者金融への返済に使うなどしていたようですが、それでも追いつ かなくなったときに初めて母親に相談していたようです。

毎回、気がついたときには200万円、300万円という金額になっていたようです。その借金はど うしたのでしょう?その借金を返すために使われたのが、私と弟が受け取っていた養育費でし た。

母親が離婚後、支払い能力の無い私の実の父親の代わりに祖父が毎月数万円の養育費を振り込ん でくれていました。その養育費を義父がギャンブルで作った借金の穴埋めに使います。

本来私と弟のお金です。しかし、子どもの私や弟が「使わないで欲しい」と言えるはずもなく、 またそんなことを思うことすらない状態で、自分たちのお金が勝手にどんどん使われていくとい う状況でした。

穴埋めした金額は合計で1,000万円にもなると聞いています。こんなことになるなら、一体誰が 誰のことを養育しているのかわからなくなります。

母親はよくこんなことを冗談なのか本気なのか言っていました。「仕事中に交通事故で死んでく れたらいいのに。そうしたら、生命保険も労災も自動車保険からもお金が入るわ。」人の命より もお金の方が大事なんだろうかと思います。

それと同じ頃、母親の口からこんな言葉をよく聞いたのを覚えています。「子どもなんかいなけ れば。こんなやつ(義理の父)とさっさと別れて好きなことするのに」

冗談でもそういう言葉を繰り返し聞くと、「僕が悪いんだ。僕がいなければお母さんは幸せにな れるんだ。」という思いがすり込まれていきます。

何度も何度も借金を繰り返す、そのたびに両親は大げんかをしていました。

今でも鮮明に覚えているシーンがいくつかあります。

1つは小学校6年生の時です。日曜日の夜、テレビでは「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送 されていました。大好きな番組で、これを見ていないと次の日学校での話題についていけなくな るくらいみんなが見ていた番組でした。また、家族も好きでみんなでリビングで一緒に見ていま した。

番組を見ている最中、母親と義理の父親が別の部屋へと移動します。おそらく話を子どもに聞こ えないようにという配慮の元でしょう。しかし、ドア1枚しか隔てていない場所では、何を話し ているかまで全部聞こえるのです。話の内容は借金のことでした。また義理の父親が借金を作っ たことでケンカをしていました。私を含め兄弟は、もうテレビを見ているような雰囲気では無く なり身を潜めるようにしていました。その時、風船が破裂するような音が聞こえてきました。ど うやら母親が義理の父親をビンタしたようです。兄弟で顔を見合わせてうつむき、嵐が過ぎ去る のをただ待っていました。

中学校

中学校1年の時です。その日は義理の父親は仕事が休みで家にいました。お昼ご飯を家族で囲み ます。メニューはミートドリア。大皿に作られていて、各自が好きな分を自分の小皿へ取り分け ながら食べる形で出されました。母親の分、私の分、弟の分、小皿とスプーンが用意されます。 しかし、義理の父親の分だけ小皿もスプーンも用意されません。母親によるあからさまな嫌がら せです。それに対して父親は怒り、白いテーブルクロスが敷かれたダイニングテーブルの上にあ るミートドリアに、隣に座っていた弟のフォークを持ち上げ、親の敵を取るかのような勢いで突 き刺しました。

直後から母親と義理の父親の口論が始まっていましたが、私や弟たちはもう呆然として、早く食 べ終えてその場を立ち去ろうとしていました。もちろん、料理の味なんか全然分かりません。家 族団らんなど皆無でした。

 

大きな裏切り

 

私が義父との10年間の生活の中で、そしてお金に関するトラブルの中で最も強く印象に残ってい る出来事です。

私が14歳、中学校2年生の頃でした。当時、GLAYやL’Arc-en-Cielなどのバンドが売れに売れてい た時期で、それを見てカッコいいなと思いエレキギターを始めていました。義理の父は早朝に出 かけて深夜に帰ってくるのでほとんど会う時間はありませんでしたが、義理の父も昔ギターを弾 いていたことがあるらしく、少し教えてもらったり弾くところを見てもらったりしていました。 実の父ではありませんでしたが、キャッチボールをして遊んでくれたり、部活でやっていたバス ケットボールのコーチをしてくれたり、借金を繰り返すという問題はありましたが、私にはよく してくれていました。

そんな義理の父親が、また同じ事を繰り返したと母親から知らされました。母親はもう耐えられ ないから離婚をすると考えているようでした。私にも意見を求めてきました。私は「確かに、こ れ以上一緒にいても同じ事を繰り返されるだけやと思う。でも、10年間一緒に暮らしてきたから 突然いなくなるのは寂しい。見捨てるのは可哀想。」と答えました。

そして、借金の穴埋めに私と弟の養育費を使いました。 義理の父親が私に頭を下げて言いました。 「本当にごめん。今まで迷惑掛けたな。これで最後にするから。」

その姿に私は、「これで心を入れ替えてくれるんだな。」「これで家族仲良く暮らしていけるん だな。」と安心したのを覚えています。

義父の少ない小遣いの中から私への誕生日プレゼントがありました。

おしゃれを意識しだした私へGATSBYのヘアムースと黒いヘアブラシです。それにこんな手紙が 添えられていました。

「生まれ変わるから見といてな!」

離婚することを思いとどまってもらって良かった。心底そう思いました。血は繋がっていません が、ずっと暮らしてきた家族です。できることなら、みんな笑って暮らしたい。幸せな家族でい たい。そう願いましたし、その願いが叶うんだと期待して気持ちも明るくなりました。嬉しかっ たんです。

それから1ヶ月も経たないある日、母親から聞かされた言葉に衝撃を受けました。 「また借金したって。」
その言葉を聞いた瞬間、私は怒り狂いました。 実際に「殺してやる!」と言いながら暴れそうになるのを母親に抑えられていました。 「これで最後にするから」

「生まれ変わるから」
頭を下げてまで言ったあの言葉はなんだったんだ!
明るい、仲のいい家族に戻れるという希望、見捨てるのは可哀想という優しさを見事に踏みにじられた怒り、悔しさ、悲しさがあふれ出てきました。
お金のためなら人は平気でウソをついて裏切ることができるんだと、私の胸に強く刻まれた瞬間でした。

1円のお金も無駄にするな! 


結局、義理の父の大きな裏切りがあってから程なくして離婚しました。

義理の父親との間にできた5歳になる弟がいました。離婚をしてお互いに違う場所で住み始める 日。近くにある大きなバスの停留所で義理の父親と弟が別れの言葉を交わします。

父親に抱きつき、泣きながら
「パパ、今までありがとう。」
義理の父親はしゃがみ込み「ごめんな。ごめんな。」と言いながら強く弟を抱きしめていまし
た。
なぜ、こんなに小さい子がこんなに悲しい思いをしなければいけないのか。この子が何か悪いこ
とをしたんだろうか。そんなことを思いました。自分が実の父親と別れるときの場面と重なった
のかもしれません。

それから、母子家庭になります。高校へ行っておらず水商売くらいしか働いた経験が無い母親に は、そんなに待遇のいい仕事は無く、これまで以上に金銭的に厳しい生活を強いられるようにな ります。

家にいても楽しくないんですよね。趣味のギターをするかゲームをするか、それくらいしか家に いる間の楽しみはありません。

ギターにしてもゲームにしても、使うためには電気が必要です。つまり、電気代がかかります。 ある日、2階にある自分の部屋で機嫌良くギターを弾いていると、母親が階段に恨みでもあるか のように「ドン!ドン!ドン!」と上がってきて、思いっきり私の部屋のドアを開けました。そ して開口一番「どれだけ無駄な電気代使ったら気が済むんじゃ!!」と叫びました。

私は呆然としました。たったこれだけのことも許されないのか。エレキギターに使う電気なんて ほんのわずかなもんだろう。それすらお金を理由にやめないといけないのか。

母親が苦労をしていることはそばで見ていてよくわかっていました。そのため、言い返したい気 持ち、反抗したい気持ちをグッとこらえて母親に従いました。

この1件は特に印象に残っていますが、ほかにもお金が理由でできないこと、手に入らないもの はたくさんありました。さらに、口を開けば「お金が無い」「苦しい」と言っていた母親に対し てお小遣いをもらうのも申し訳ない気持ちになりました。お金を使うことを嫌がる母親を横目に し、お金を使うことはいけないことという考えが私の中でどんどん育ちました。

私が通っていた中学校は徳島県の中でも割と都会の方にあり、いわゆるヤンキーが多い学校でし た。彼らや親や先生に反抗し、言いたいことを言ってやりたいことをやっています。もちろん、 彼らなりに抱えた満たされない気持ちはあるんですが、そんなことは14歳の私に分かるはずもあ りません。彼らを見ては「うらやましい」「あいつらみたいになれたらどんなに楽だろう」と 度々思っていました。

「毎日が楽しくない」

「家にいたくない」
「グレたい」

そんなことが頭の中をグルグルしていた時期がありました。しかし、私の頭の中にこんな声も聞 こえました。とても大きな声で「お前がグレたら、誰が母親を支えるんだ!」

その声にハッとし、それ以降グレたいとは思わなくなりました。
「そうだ。自分がしっかりしないといけないんだ!」
そう思い、苦しい気持ち、やりきれない気持ちに蓋をすることにしました。

高校

お金に気分を左右されるようになる

高校生になると、私はすぐさまアルバイトを始めました。高校卒業後、大学に行くよりも専門学 校へ行ってすぐに使えるスキルを身につけた方が就職に役立つと考えていましたが、親に頼れな いのはわかっていたので、進学するなら自分でなんとかするしかないと思ったからです。

とにかくお金を稼ぐことを考えていたので、アルバイトに明け暮れた3年間でした。学校で過ご す時間よりもアルバイトをしていた時間の方が長かったと思います。

「お金は使わない方が良い。」

その考えの元、できるだけお金を使わないようにしていました。アルバイトの休憩中に食べるご 飯も、「食べたいもの」ではなくいかに安く済ませるかがテーマでした。そのため、従業員割引 で半額になるアルバイト先のパンばかり食べていました。しかも、できるだけ安くてお腹がいっ ぱいになるものを選んで食べていました。ほかのアルバイト仲間はコンビニで食べたいものを買 ってくるとか、近くにある餃子の王将でお昼ご飯を食べたりしていましたが、そういうのを見る と「なんてムダなことをしているんだろう。」と思っていました。

たくさん稼いで極力使わないようにし、どんどん貯める。そんなことを年上のアルバイト仲間に 話すことで「すごいね。偉いね。」と言ってもらえるので、「これで間違っていないんだ。」と いう思いが強くなっていきます。そのため、16歳や17歳の時から預金残高を眺めるということを していました。バイト代が入り、預金残高が増えているのを見るといい気分になります。しか し、欲しい物や必要なものを買った後で預金残高が減っているのを見ると嫌な気分になります。 お金のあるなしに、自分の気分を影響されるようになっていきました。

ムダなものは買わない。できるだけお金は使わずに貯めていく。それが正しいし、良いことだと 思っている傍ら、欲しい物が出てきて買いたくなります。まだ自分でお金を稼ぐことができなか った時から「お金が無い!」という理由で我慢をしてきたから余計にその思いが強くなります。 「貯めないといけない」とわかっていても欲しいものを買ってしまうのです。そのことに罪悪感 を覚えたりしていました。

親には頼れない。そんな気持ちから、アルバイトを始めてから学校で必要なお金はほとんど自分 で支払っていました。


アルバイトに明け暮れた結果、大きな罪悪感を背負う


これは高校3年生の夏休みです。進学を翌年に控え、私はとにかくたくさんお金を貯めておこう と思い、これまで以上にアルバイトの時間を増やしました。週6日、朝から晩まで働いていまし た。とにかく働く、そしてお金を稼いで貯めることだけを考えていました。そうしなければ、自 分のやりたいことができないと思ったからです。そしてそれは家族を救うことに繋がると信じて いたからです。

その時、私は音楽の専門学校へ進学しようと決めていました。純粋にギターを弾いているときが 好きでしたし、ライブをするのも楽しくて好きでした。そして、その頃はいろんなバンドやアー ティストのCDがどんどん売れている時期で「300万枚突破!」とか「ミリオンセールス!」なん ていうのが、毎朝めざましテレビで伝えられていました。それを見て単純に私は「音楽で成功す れば大金が手に入る。そうすれば自分も家族もお金で苦労せずに済む。」と思います。自分のや りたいことでもあり、それが家族を救うためになるならと、まずは専門学校へ無事進学できるよ うにたくさん働き、お金を貯めていたのです。

8月11日。それは弟の誕生日でした。家族の誕生日はみんなでそろってお祝いをしていました。 でも、私はそんなことを忘れるくらい働くこと、お金を稼ぐことに集中していたので、8月11日 は朝から晩までアルバイトを入れていました。

朝早く、誰も起きていない頃くらいに家を出て、家に帰ったのは夜22時頃でした。玄関を開け、 靴を脱ぎ、リビングに入ります。そこで見た光景に私は目を疑いました。家の中がぐちゃぐちゃ に荒れているのです。母親は泣きはらしたのか目が腫れて横になっている。顔には青いアザもで きている。テーブルや床の上は空き缶や食べかす、ゴミが散らばっている。弟も床の上に横にな ってぐったりしています。

机の上に誕生日ケーキがあるのが目に入り、「あ、今日は弟の誕生日だった!」その瞬間、とて
も申し訳ない気持ちに駆られました。それから、家の中がなぜこんなに荒れているのかを、私が
帰ってきたことに気づいた母親に尋ねました。すると母親はこう言いました。
「あいつが乗り込んできた。」

あいつというのは、母親の中学時代の先輩のことです。その人とは家族ぐるみで付き合いをして いたことがあったのでよく知っています。母親が離婚をしてから、その先輩の夫と不倫をしてい たのです。不倫がバレて、その日先輩が家に乗り込んできて暴れて帰ったというのです。

それを聞いた私はものすごく自分を責めました。長男である自分が家にいてれば、母親が殴られ たりするのも防げたし、弟の誕生日をめちゃくちゃにされずに済んだのに。。。自分がアルバイ トに明け暮れているばかりに、家族をこんな目に遭わせてしまった。罪悪感でいっぱいになりま した。

それから母親はうつのようになってしまい、かろうじて仕事へは行きますが「笑えない」と言っ て廃人のような様子でした。話を聞くと、不倫相手に相当入れ込んでいたらしく、不倫相手の子 どもを妊娠までしていたようです。

不倫相手の奥さんが家に乗り込んできた後も、関係は続いていたようですがその関係が母親の気 分を落としているのは高校生の私が見てもわかりました。「関係を終わらせたいけど終わらせら れない。」そんな母親に代わって私が不倫相手に直接電話をしたのをよく覚えています。「もう 関わらないで欲しい!」「母親のこんな姿をもう見たくない!」力強く相手に告げ、相手もそれ を了承し電話を切りました。うなだれて子どものように泣きじゃくる母親を抱きしめました。 「自分がしっかりしなければ。家族を守っていかなければ。」その思いが一層強くなった出来事 でした。


この家買い取りましたので、出て行ってもらえますか?


これも高校3年生の夏休みの出来事だったと思います。その日はバイトが昼からか何かで自宅に いました。「ピンポーン」家の呼び鈴が鳴ります。節約のためクーラーなどついていない家の 中、パンツ一丁でいた私は急いで服を着て訪問客に対応します。母親は仕事に出て家にいませ ん。

「ガチャ」玄関ドアを開けるとスーツ姿の男性が2人立っていました。前にいる人はメガネを掛 けた40代くらいの男性。天然パーマで白髪交じりの髪型、背は165cmくらいでした。どこにでも いそうなサラリーマンという感じです。その人がほとんどしゃべっていたのでもう1人の事はよ く覚えていません。

「私、株式会社やすらぎの○○と申します」その男が私に名刺を出すとともに挨拶をしてきまし た。

「はぁ・・・」何の件で尋ねてきているのか全く分からなかった私はただ生返事をするだけでし
た。

次にその男性が言った言葉はこれです。

「この家を我が社が買い取りましたので、出て行ってもらえますか?」

離婚をした際、名義は義理の父親のままにして住宅ローンを義理の父親に払ってもらっていまし た。しかし、とうとう義理の父親が自己破産したのがきっかけで私が住んでいる家が競売に出さ れていたのです。それをやすらぎという会社が買ったという話でした。

「家を買ったから出て行け」

ショックでした。しかも、高校生の子どもに言うようなことではありません。私は即座にこのや すらぎという会社を敵だとみなし、訪問してきている男性に強い怒りを覚えました。しかし、ど うすることもできません。やすらぎという会社もその男性も何も悪くありません。法律に則っ て、競売に出されていた物件を購入した。家が他人の物になったのだから、出て行かなければい けない。ただそれだけのことです。

怒り、無力感、罪悪感にさいなまれました。母親に買い戻せるような収入もなければ、助けてく
れるような人もいません。どうすることもできない、何の力にもなれないこと、そんな中自分は
就職ではなく進学をしようとしていること。

結局、半年ほどの猶予をもらって出て行く準備をし、5LDKの一戸建てからボロボロのニコイチ で3Kの借家へ引っ越すことになりました。


卒業アルバムすら買わない


私が住んでいる徳島県では車がないと生活ができないと言われるほど車社会です。一家に一台で はなく大人1人に一台くらいの割合で車を持っています。そのため、高校3年生にもなると、ほと んどのクラスメートは「いつから車の免許取りに行く?」という話、それから「どんな車を買っ てもらう?」という話で盛り上がっています。

親にも頼れず、専門学校に行くために全力を注いでいる私には車を買うどころか車の免許を取る ような余裕もありません。クラスメートの会話を、ただうらやましく思いながら聞くしかありま せんでした。

そんなとき、私の実の父親と会う機会がありました。久しぶりに会うので、会うこと自体に緊張 しましたが、私は思いきって「車の免許を取りたいから費用を出してもらいたい」とお願いして

みました。しかし、返事は即答でNOでした。おまけに自分が進もうとしている音楽の道につい ても散々否定され、とてもへこたれて家路についたのを覚えています。

「みんなしてもらっている当たり前のことすらしてもらえないのか」そんな思いが何度もやって きました。その思いが拗れて「自分が乗る車の免許のお金や車のお金を親に出してもらうような 奴はクズ。自分のことは自分でやれるようにならなければいけない。」そう思っていました。

自分がしてもらえないことに対する悲しみ、クラスメートに対する妬み、怒り、そんな思いもあ って、私は1人だけ卒業アルバムを買いませんでした。数千円だったと思いますが、親に出して 欲しいとも頼めません。「必要ない。見たくなれば誰かに見せてもらう。」そう言って買いませ んでした。今から思うと、本当は買いたかったんだと思います。でも、ひねくれた「俺はお前ら とは違う。」という主張をしたいがために、二度と手に入らない物を逃してしまいます。

専門学校〜就職まで

気がついたら目と鼻の先にトラックが。それも何度も。


高校卒業後、奨学金を借りられるだけ借り、大阪にある専門学校へ進学しました。学費は奨学金 で、敷金や礼金などは自分が今までアルバイトで貯めたお金でまかなおうとしました。

音楽という半ばギャンブルのような世界に飛び込んでいくので、ズルズルと続けるのは嫌だなと 思っていました。音楽をやりたい気持ちはありましたが、あくまでも成功して家族を楽させるの が目的です。にもかかわらず、30歳になっても40歳になっても芽が出ないまま堕落していくとい うことは避けたかったのです。

そのため、自分の家具や家電などを買いそろえるのではなく、家具家電付きのアパートにしよう と考えました。それだと、辞めようと思ったときもスッパリ辞めやすい、簡単な荷物だけ持てば 引き払えると思ったからです。

当時、レオパレス21が「敷金礼金無し、家具・家電、光熱費込み」という謳い文句で頻繁にCM をやっていました。「それはいい!」と思い、大阪で住むところはレオパレスにしようと決めま す。

敷金礼金無し、家具家電や光熱費込みなので月々の家賃はかなり高いです。しかし、1年間分一 括で払えばそこそこ安くなりました。私が貯めていたお金で1年間分一括で支払えて住めそうな レオパレスの物件はあまりありませんでした。貯金のほとんどを出せば、学校からそれなりの距 離のところもありました。しかし、私はせっかく貯めた貯金が全部なくなってしまう怖さ、引っ 越した後に来年1年分の家賃をためられるかどうか分からない不安から、家賃が一番安い枚方市 の外国語大学の近くにあり、吹田市にある専門学校まで原付バイクで片道1時間かかるところを 選択したのでした。

仕送りなどありませんし、来年もレオパレスに住むなら1年間分の家賃を貯めなければいけませ ん。当然のごとく学校が終わってからアルバイトをします。学校の近くで学校のスケジュールに 合わせやすく、なおかつ時給がいいところを探すと、大手居酒屋チェーンのお店が条件に合って いました。夕方17時から夜中2時、3時まで働きます。金曜日や土曜日は朝の5時まで働きます。 次の日は早い日であれば朝9時から学校が始まります。

3時まで働き、片道1時間かけて帰ります。4時を過ぎています。次の日9時から学校であれば8時 には家を出る必要があります。すると7時半には起きなければいけません。寝られるのは3時間ほ どです。そんな日が続きます。当然眠くなります。学校の授業中も睡魔に襲われることがよくあ りましたが、一番睡魔に襲われるのはアルバイトが終わって家に帰る途中です。

原付バイクを運転している間中、眠くて眠くて仕方ないのです。ウトウトして、それに気づき、 首をブルブルと振って眠気を飛ばし、また少しするとウトウトして、、、というのを繰り返しま す。大音量でウォークマンを聴いてもダメ、原付の上で足をパタパタさせてリズムを取る練習を してもダメ。運転をしながら完全に眠っていたこともよくあります。気がついたら目と鼻の先に トラックがいて、急ブレーキをした拍子に転倒したということもあります。何度も何度も「この ままでは死ぬ」と思いました。

そんなことを思ったところで誰もどうにもしてくれません。やるしかないのです。誰にも助けを 求めず、ただひたすら毎日をこなしていました。


警察に捕まってさらにお金を失う


片道1時間かかる道のりをほぼ毎日のように往復する日々が続きます。この時間は何もできない のでハッキリ言って無駄な時間です。そのため、できるだけ短い時間で済むように、常に原付バ イクが最高に出せる60km/hで走っていました。

学校へは枚方市から国道1号線をずっと直進し、寝屋川市を抜けて、守口市を抜けて、通いま す。家を出発して20分くらい経ったところで、けたたましいサイレンの音が聞こえます。サイレ ンの音の次に聞こえたのは「徳島ナンバーの原付バイク、止まりなさい!」という指示でした。

どうやら、国道1号線へ合流する小さい道路で警察が見張っていたようです。原付バイクは30km/ h以上出せないので大きなスピード違反です。25km/hオーバーで、幸い免停にはなりませんでし たが、3点の減点と12,000円の罰金を払うことになりました。

毎日1円、2円の節約をするために見切り品の50円で売られている6枚切りの食パンで1日過ごし たり、欲しい物があっても我慢したり、同級生たちが学食や近くのレストランでランチを食べて いる中、自作のお弁当を食べたりしていました。お弁当を見られるのは恥ずかしいので、できる だけ人目のつかないところを選んでコッソリ食べていました。それだけのことをしても、12,000 円分を節約するのは並大抵のことではありません。努力の結晶である12,000円もの大金を一気に 失うことになってしまいました。本当にやりきれない気持ちでした。馬鹿馬鹿しくて仕方ありま せんでした。「ほかにもたくさんスピード違反をしているような車はいっぱいいるのに、なんで こんな目遭わなければいけないんだ。」「一生懸命努力して、辛いのも我慢して誰にも頼らずに 頑張っているのに、なんで自分がこんな目に遭わなければいけないのか。」そんな思いが絶え間 なくやってきて、またそれに苦しんでいました。

次に捕まったら免停になって原付バイクに乗れなくなります。しかも、罰金を払うことにもなり ます。そこで私は、住んでいたアパートの目の前にあるバイク屋さんに教えてもらい、小型二輪 の免許を取ることにしました。

小型二輪の免許を取り、今あるバイクの排気量を上げて小型二輪として登録し直すことで制限速 度が30km/hではなくなり、一般道は車と同じ制限速度で走れるようになるのです。

しかし、タダで免許をくれるわけではありません。教習所に通う必要があります。免許を取るた めの費用に20万円ほどかかりました。ここでも、「俺は何をやってるんだ!」という考えに苦し みました。確かに免許は取れますが、20万円余分に家賃を支払っていたら、毎日苦しい思いをし て片道1時間もかけて通う必要もなければ、免許を取るために時間を割く必要もなかったので す。その時間はギターの練習ができたでしょうから、より上達も早かったでしょう。

住むところを決めるときに私にはそんな考えはありませんでした。とにかくお金を使いたくな い、使わない方が良い、残しておいた方が良いという考えに支配されて、合理的な判断はできま せんでした。

結果、どうなったでしょうか?お金を出さなかったおかげで、無駄な移動時間で毎日2時間も浪 費することになり、警察に捕まって罰金は取られ、本来必要なかった免許取得費用に20万円もか かるという始末です。

22

自分の快適さや気持ちをないがしろにしてお金を守ろうとすると、結果的に何らかの形で守ろう としたお金を失うことになるのです。もちろん、そんなことを当時は知る由もありません。罰金 を取られた分、免許費用にかかった分、また頑張って節約しなければ、バイトをしなければと自 分を犠牲にすることになります。


厳しい現実を目の当たりにする


学校もアルバイトも真面目にこなし、時間が空いたらギターの練習を1日長いときで7時間8時間 とする、という日々を1年と数ヶ月こなしていました。専門学校は2年で終了なので、1年を過 ぎた辺りからこれからどうしていくのか、どうしていきたいのかを考えて決める必要がありま す。

ギターを弾くのは楽しいと感じていたので、バンドで一山当てなくてもスタジオミュージシャン やギター講師という形で仕事ができないかと模索していました。しかし、そこにも厳しい現実が 待っていました。私が通う学校のギター講師や、サポーター(アンサンブルの練習時にベースや ドラムを演奏してくれる人)がどれくらい給料をもらっているのかを聞くことができたのです。 ギター講師は若くても30代後半~60歳手前くらいの方たち、サポーターも30代前後の人が多か ったです。その人たちがもらっている給料は、普通のサラリーマンがもらっているのと大差がな いか、むしろ少ないくらいでした。

「こんなことやっていていいんだろうか。」現実を目の当たりにして思った言葉です。やりたい 音楽の道へ進みたい。そうは思いましたが、目的は家族、そして母親を楽させること、お金の苦 労から解放することです。アルバイトに忙しくバンド活動などほとんどできていない状態、そし て、ギターがうまくなってギター講師やスタジオミュージシャンになったとしても、そんなにた くさんの収入を得られるわけではない。でも、この専門学校へ通うために死ぬほどアルバイトを して、借りられるだけ奨学金を借りています。私は散々悩みました。

悩んだ結果、専門学校へは行くのをやめよう。音楽の道は諦めよう。そう決断しました。最終的 な目的は「お金」だったからです。そのお金を得られないのであれば、続けていても仕方ない。 そういう判断でした。その決断を母親に伝えると「音楽の道は諦めるにしても、専門学校には最 後まで行け!」と言われます。学校の先生にも「2年間かよって芽が出なければ諦めると期限を 決めているのは偉いと思う。だから最後まで通うだけ通ったらどう?」と言われました。しか し、私は「続けないことにダラダラ時間を割いていても仕方ない。」と思いましたし、何よりも 気持ちが「そっちじゃない。」と言っていたのです。


家計簿が次の道を示してくれる


音楽の道は諦めることにしました。しかし、これからどうすればいいか。それが次の悩みになり ました。8畳一間の真ん中にあぐらをかいて座りこみ考えます。高卒で専門学校も中退となる と、地元に帰っても採用してくれるところも少ない。そう考えた私は「何か資格が必要だな。」 と思い、資格を取ろうと思いました。「じゃあ、何の資格を取るの?」そう思ったときに、床に 転がっている一人暮らしを始めてからずっとつけていた家計簿が目につきました。

家計簿といっても、水道光熱費は家賃に含まれているので食費をメモしている簡単な家計簿でし た。その家計簿をつけることは楽しくやっていたのです。その日いくら使ったのか、1ヶ月の合 計はいくらか、1日あたりいくらで生活出来ているのかを毎日記録していました。1日あたりの生 活費をとにかく少なくすることを目標に設定し、その数字が減っていくことに楽しさと喜びを感 じていました。「賢くお金を使えている。」と認められている気もしました。

その家計簿を見ながら「そうだ、自分はお金のことが好きなんだ。じゃあ、お金のことを学ん で、お金にまつわる資格を取ろう!」と決断します。その日からギターをペンに持ち替えて勉強 に明け暮れる日々がスタートしました。

まずは、高校でも勉強していた簿記の資格を取ることにしました。日商簿記2級の資格を取りま す。その後、お金にまつわる資格を探そうと、家から15分ほどの距離にある本屋さんへ行きまし た。本屋さんの入り口付近にスタンドが置いてあり、資格学校のパンフレットが刺さっていまし た。なんとなくスタンドを眺めながら通り過ぎていると、スタンドの1番上に刺さっていたパン フレットに書かれていた「ファイナンシャルプランナー」という文字に目が止まり、2歩後ろに 下がります。パンフレットの中身を見ることもなく、ただ「ファイナンシャルプランナー」とい う名前が「カッコよさそう!」という理由でファイナンシャルプランナーの資格を取ることを決 めました。


我慢の反動が現れる


大阪から地元徳島へ帰ってきます。ニコイチの実家には4人で住めるスペースがないので、アパー トを借りて一人暮らしです。仕事も何も決まっていなかったので、私はとりあえず高校の時のバ イト先で働くことにしました。働きながら、空いた時間で資格取得の勉強をするという生活で す。

地元へ帰ってきて大きく変わったことがあります。それは、我慢をしなくなったことです。専門 学校への進学や、家賃をためるためにこれまでずっとお金を使うことに対して我慢をしてきまし た。しかし、お金を貯めるための目標を失ったことで我慢をする必要がなくなりました。

私はとにかくお金を使いました。今まで我慢してきたことの反動だと思います。収入はさほどあ りませんが、どんどん使うので預金残高がどんどん減っていきます。お金を使うことに罪悪感は あるのですが、止められないのです。預金残高が減っていくことに不安を覚えるのですが、お金 を使うことを止められないのです。

私はとにかく女遊びをしていました。街中でナンパをするような勇気はなかったので、当時流行 っていたスタービーチという出会い系サイト使って毎晩のように女の子を引っかけて遊んでいま した。女の子と遊ぶためにかかる食事代、ホテル代、ガソリン代、おしゃれをするためのお金に たくさん使っていました。


節約生活再び


そんな生活を送り出してから半年が経過し、とうとう預金残高が残り数万円にまでなりました。 「このままではさすがにヤバいな、、、」そう思った私は「次に出会ったかわいい子を彼女にし て女遊びをやめよう。」と決めます。

そう決めた直後に出会ったのが今の奥さんです。「よっしゃ!かわいい子に出会えた!この子を 彼女にしよう。」と思い、出会って数日後には付き合って欲しいと告白しました。

OKをもらったので、定期的に会っていました。彼女が住んでいるのは私が住んでいるところか ら原付バイクで30分ほどのところでした。外で会っているとお金がかかる、あまりお金を使いた くないと思った私は「一緒に住もう」と提案しました。付き合って1ヶ月も経ってません。

彼女があまり家庭環境ではないのもあって家を出たかったのか、そのまま同棲をすることになりました。

その当時、私は人材派遣会社のスタッフサービスからジャストシステムというPCソフトを作って いる会社へ派遣されていました。時給が1,000円、朝9時から夜6時まで週5日働きます。月の給料 は総支給で14万円程度です。そこから厚生年金やら健康保険やらを引かれると10万円ちょっとし か残りません。それはファイナンシャルプランナーの勉強で知っていました。そのため、派遣会 社から来る厚生年金や健康保険への加入手続きの書類を無視し続けていました。本来なら強制的 に加入させられたと思うのですが、その時は特におとがめもなく、厚生年金も健康保険も未加入 のままでした。

月14万、預金ほぼ無し。一緒に住んでいる彼女も働いていない。これで二人で生活をしていくの は厳しい。今住んでいる1K6畳の部屋で2人生活していくのはムリだ。でも、引っ越しするにも お金が無い。ということで、再び厳しい節約生活を始めるとともに、私は週2日ほど深夜ガスト でアルバイトをすることにしました。

当時していた節約生活で、今でも奥さんに言われるのは「ファンタオレンジ事件」です。1.5リッ トル入りのファンタオレンジを買って冷蔵庫に入れていました。彼女(今の奥さん)は日中家に いるのでファンタオレンジを飲みます。私が仕事から帰ってくるとファンタオレンジが1/3位なく なっているのです。それを見た私は「なんでこんなに飲んどるんじゃ!」激怒したそうです。

それにショックを受けた奥さんは、ジュースを飲むのをやめ、水道水も不味いからほとんど水分 を取らなくなり膀胱炎になってしまいます。結局、膀胱炎を治すために通った病院代の方が高く つくという結果になりました。ケチるとロクな事がないということを散々繰り返しているのです が、その当時もまだそのことには気づかず、ケチっては損する、ケチっては損をするということ を繰り返し続けました。

こんなこともありました。引っ越した先では、毎月家賃を隣に住む大家さんに渡しに行くという システムでした。ある時、家賃を支払った後に財布の中身が5,000円少ないことに気づきます。 「もしかして大家さんに渡しすぎたのかもしれない。」と思い、大家さんに5,000円多くなかっ たか確認してみますが、そんなことはなかったと言われます。5,000円、大金です。5時間も働か なければなりません。血眼になって探しますが見つかりません。これだけ探しても見つからない ということは・・・私は同棲している彼女を疑いました。「盗ったんじゃないか?」彼女に問い かけますが、彼女は知らないと言います。その時彼女は働いていて、自分のお金は自分で支払っ ていました。そのため、別に盗らなくても問題ないのです。しかし、私は自分に記憶違いはない と言い張り、これだけ探してもないし、この部屋に住んでいるのは俺とお前だけだから、お前が 盗ったんだろう!と譲りませんでした。結局、大家さんが「何度も確認したけどもらいすぎじゃ なかった。でも、もしかしたら私がもらいすぎてるのかもしれないから。」といって5,000円を 渡してくれました。

「お金のためなら人は平気でウソをついて騙す」という事を信じているがために、私は無実の彼女を疑い、傷つけてしまいました。

お金のことで彼女とは散々ケンカをしました。彼女も働き、家賃など2人でかかる分はお互いに 支払い合いますが、残った分は自由に使ってもいいはずです。しかし、私は彼女が何にお金を使 っているのか厳しく目を光らせていました。不要な物を買っていると「なんでそんな物を買う の?」「それ本当に必要なの?」と厳しく彼女に詰め寄ります。もちろん、私自身も本当に必要 な物以外は買わないようにしていました。要は我慢をしていたのです。自分が我慢をしているの に、好きな物を買っている彼女が許せなかったのでしょう。「自分は将来のことを考えて貯めて いるのに、こいつは何もしてない!」という考えも怒の火に油を注ぎました。それならそうと、 「一緒に協力して欲しい」と言えば良かったのですが、そんな考えすらなく相手が悪い、相手を 責めるということばかりしていました。


このままではいけないことに気づく


働きながら少しずつですがファイナンシャルプランナーの勉強を続けていました。ファイナンシ ャルプランナーの勉強の1つに「ライフプラン」というのがあります。ライフプランとは、将来 どんな人生を送りたいのか、その人生にはいつ、どれくらいのお金が必要かを考えたり、それを 表にして一覧したりすることです。

詳しく自分のライフプランを立てた訳ではありませんでしたが、将来母親の面倒を見なければい けないことはわかっていました。母親は再婚するまで年金など払っておらず、追納も5年(当 時)しか遡れません。これから支払っても受け取れる年金額は計算すると年間で40万円程度。貯 金などほとんどありませんし、収入もやっと生活していけるくらいしかありません。かといっ て、自分も仕事を掛け持ちして、しかも厚生年金も健康保険も支払わずに手取りが月20万円程 度。自分も結婚をして子どもを持ちたい。その上で母親を養っていくとしたら、最低でも手取り で月50万円は必要だと思いました。細かく計算はしていませんが、自分の家庭で30万、10万貯 金、残り10万を母親へという計算で月50万円だと思いました。このまま派遣社員なんかしてい たらダメだ!一刻も早く月50万円もらえる仕事に就かなければ!と気づきます。

それからは資格取得の勉強に集中するため、ガストのバイトをやめ、空いた時間は勉強すること にしました。幸い、派遣社員の仕事は結構ヒマだったので勤務中も時間があれば勉強していまし た。努力の甲斐あって、ファイナンシャルプランナーの3級、そして2級、AFPと資格を取得でき ました。22歳の1月末、徳島へ帰ってきてから1年と9ヶ月が経っていました。

ファイナンシャルプランナー2級、AFPと資格取得できたので退路を断つ意味で派遣先へ退職し たい旨を告げ、2月いっぱいで派遣社員をやめました。

それから就職活動を始めます。条件は月50万円稼げる可能性があるところ、そしてファイナンシ ャルプランナーの資格を活かせる仕事です。そして、高卒でも採用してくれるところです。

インターネットで検索し、大東建託や野村證券などの面接に申し込みました。どちらも歩合給あ りの営業職です。大東建託は面接すらしてくれず、野村證券は一次面接で落とされました。当然 です。高卒でしかも営業経験もなければ、人脈を持っているわけでもありません。ファイナンシ ャルプランナーの資格を持っているだけで、雇う方からしたら何の魅力もない人材でしょう。

しかし、私は諦めませんでした。なんせ、仕事も辞めていたからもう後がないからです。たくさ んのところへ面接申し込みをします。すると、東京海上日動が面接をしてくれるということで面 接へ行きました。

レンガ調の5階建てビルの駐車場に15万円で買ったシルバーの塗装がはげまくっているセリカを 駐め、自動ドアをくぐり、エレベーターで3階の徳島中央支社へ向かいます。心臓がまるで和太 鼓を強く叩いているかのうように、ドンドン音を立てていました。とても緊張していました。

その時に強く思ったことが「自分のやりたいことをしっかりと伝えよう。自分の気持ちをしっかり
と伝えるんだ。」ということでした。

重たいガラス戸を開け、受付の女性に声をかけます。「今日面接の予定の中川優也と申しま す。」背景にはオフィスがあり、たくさんの人が忙しそうにしているのが目に入りました。

「こちらへどうぞ。」と受付の女性が面接が行われるテーブルへ案内してくれます。「ありがと うございます。」と伝えて面接担当の方が現れるのを待っていました。自分の心臓の音以外は何 も聞こえませんでした。

面接担当の方が現れて挨拶をします。緊張しすぎてそこからは何も覚えていません。ただ1つ覚 えているのは「私はお金の苦労をたくさんしてきました。そこでお金の大切さを学びました。蛇 口から水を出すのも、電気を使うのもお金がかかること。小さいことに気をつけることで残って いくお金が全然違ってくることを学びました。その経験から、お金の大事さや大切にしていくこ とを伝えたいです。」と涙声になりながら伝えたことです。私は自分の気持ちを伝えるのは今で も苦手です。でも、このときは「言う、伝える」と事前に決めていたので、なんとか伝えること ができました。面接担当の方は「わかりました。結果はまた追って連絡します。」と返事をして くれました。

結果の連絡があるまでの1週間、結果は気になっていましたが「自分の気持ちをしっかり伝えら れたから、もしダメだったとしてもいいわ。」と思えてました。

3月、冷たい風が吹く春先の昼間、買い物へ行くために原付バイクに乗っているときに携帯電話 が鳴ります。バイクを歩道に駐めて携帯電話を見ます。東京海上日動からの電話でした。番号を 見た瞬間、身体が一気に緊張し、心臓の鼓動が早くなり、電話に出るのをためらいます。一息つ き、電話に出ます。「はい。中川です。」相手は面接を担当してくれた方でした。面接の結果、 一次面接を通ったので二次面接へ進みます。という連絡でした。

「はい、わかりました!ありがとうございます!」私は嬉しくて飛び上がりそうでした。その 後、二次面接、適性検査、三次面接を経て、22歳最後の日、2006年6月1日から東京海上日動の 代理店研修生として働くことになりました。

就職から無職になるまで

休んだのは1年間に3日だけ

 

無事「月50万円稼げる可能性がある」「ファイナンシャルプランナーの資格を活かせる」仕事に 就くことができました。しかし、それはゴールではなくスタートです。

代理店研修制度は3年2ヶ月という期間の中で定期的に査定があり、その時に必要な成績を残せて いないと終了してしまうのです。3年2ヶ月の研修を無事終えられるのは、ほんの一握りの人達だ けで、ほとんどの人は途中で成績が足りずに終了してしまうのです。

私と同じタイミングで入社した同期もそうでしたが、ほとんどの人は社会人経験をある程度積ん でいて、営業経験があり、顧客開拓先を持っている人でした。自動車ディーラー、生命保険会 社、法人顧客を持っている旅行会社の営業マンの経験がある人などです。こういう経歴を持って いる人でさえ、研修期間を最後まで終えられないそうです。

私は営業経験もなければ、顧客の開拓先も「家族」と「友人」のみでした。他の人の何倍も努力
しなければいけないのは明白でした。

「できる事は何でもしよう。」そう決めて働きました。土日も関係なく働きました。家族や友人 に協力を依頼するのはもちろんのこと、個人宅やお店へ飛び込み営業もしましたし、営業ができ ない夜間は当時流行っていたmixiで友達を増やしたり、オフ会に参加したりしていました。

朝早くから夜遅くまで1日12時間以上働く日々です。「休んでなんかいられない」その気持ちか ら、1年で本当に休んだのは体調を崩した3日間のみです。盆も正月も関係ありません。学校の 同級生が集まるような同窓会などを積極的に開いて営業活動にいそしみました。

毎月、同じタイミングで入社した全国の代理店研修生の成績のランキングが貼り出されます。努 力の甲斐あってか、ランキングは全国120人中毎回ベスト10に入っていました。しかし、決して 1位になることはありませんでした。

そのことについて私は「もっと努力すれば、もっと頑張ればもっといい成績が出る、出せる」と 思い、さらに奮闘することになりました。しかし、私よりもランキングが上の人に話を聞いてみ ると「たくさんの契約を紹介してもらった。」とか「会社が契約をくれたんだ。」みたいな話が ちらほら聞こえます。つまり、その人の努力とは無関係に結果が出ているのです。私はそのこと にとても悔しさ、憤り、嫉妬を感じました。「努力もしないで結果を出すなんて卑怯だ。」とさ え思いました。

 

不要な保険を提案する奴は悪だ!

 

私は自動車保険や火災保険などの損害保険の他に、生命保険も営業もしていました。私の当時の ポリシーは「お金はとにかく大事なもの。必要な物以外はいらない。」というものでした。その ため、クライアントに提案する保険も自然と必要最小限のものになります。保険料が安くなるこ とに多くのクライアントは喜んでくれました。

私の提案で保険料が安くなるということは、それまでに加入している保険にムダがあって高くな っているということです。私にはそれが「要らないものを売りつけてクライアントのお金を搾り 取る悪人」のように思えました。そのため、私の中では「自分は正義の味方。クライアントの大 事なお金を守っている」という考えがありました。

保険を販売する立場の人が「こんな保険は必要ないですよ。」というので、クライアントは私を 信頼してくれました。その結果、たくさん契約を頂くことは出来ました。しかし、ムダな保険を 一切提案しないとなると、契約する保険料は安くなります。一つ一つが安い契約なので、ノルマ を達成するのにたくさんの契約件数が必要になります。そのために、たくさん動いてたくさんの 人に会う必要があります。がむしゃらに働く、努力し続けるというところから抜け出せなくなっ ていました。

 

実の父親のクズッぷりを目の当たりにする

 

その頃、私の実の父親が徳島の繁華街でロシア人のショーパブのお店を開店させました。そのお 店を開店させるために祖父母の家を担保にお金を借りていたようです。1年か2年くらいやって いたみたいですが、うまくいかずに借金だけが残り、その担保になっていた祖父母が家を失うこ とになりました。

その知らせを母親から電話で聞きましたが、怒りを通り越して呆れたのを覚えています。子ども を捨てて出て行って好き放題やって、最終的に自分の親の家まで奪ってしまうとは。こんなクズ が自分の父親なのかと思うと情けない。そう思いました。

祖父母には養育費のことから世話になりっぱなしなので、何か恩返しがしたいと思い、弟と相談
して温泉旅行をプレゼントしました。

祖父母とも本当に喜んでくれました。お土産を持ってきてくれましたが、涙を流して「ありがと う。楽しかったよ。」と言って喜んでくれました。

祖父母は大阪にいる娘、私から見れば叔母のところで一緒に住むということでした。別れるのは
辛いですが、最後に祖父母孝行できてよかったなと思えました。
 

そうだ、家を買おう

 

東京海上日動で働き出して1年弱くらい経過したときです。その日は月末で大家さんへ家賃を支 払いに行く日でした。1万円札4枚を財布から取り出して家賃袋に入れ、アパートの隣に住む大 家さんの家に向かいます。家賃を手渡して自室に戻ったときにふとこういう考えが浮かびまし た。「もう家賃を払うのはもったいないな。」

家賃はいくら支払っても自分のものになりません。そこで、家を買おうとひらめきます。すぐさ ま一緒に住んでいる彼女と一緒に住宅展示場へ行きます。築数十年経っているボロボロで、お風 呂は昭和を感じさせるピンクのタイル造り、湯船は1人体育座りするといっぱいになるようなア パートとは違い、広くて綺麗な家がたくさん建っています。

家賃がもったいないのもありましたが、「早くこんな家に住みたい!」という気持ちが芽生え、
いろんな家を見る度にその気持ちがドンドン高まりました。

さすがにファイナンシャルプランナーの資格を持っていたので、住宅ローンの支払いがいくらに なるのか、それを払っていけるのかは何度も計算しました。その結果、今2人で稼いでいるくら いの収入があれば問題ない、また自分がこれからも努力して収入を増やしていくから問題ないと いう結論になり、家を買うことにしました。このタイミングで結婚もしました。

2,990万円、大手ハウスメーカーの建売住宅。35年ローンで、当時はまだ金利も3%台と高く毎月 123,000円の返済です。家を買おうと思い立ってからわずか3ヶ月しか経っていませんでした。

計算したとおり、住宅ローン返済も毎月の生活も貯蓄も大丈夫でした。ところが、家を買ってわ ずか1年後、奥さんが体調不良で仕事を辞めざるを得なくなってしまったのです。職場の人間関 係が問題で精神的に辛くなり、仕事に行けなくなってしまいました。

それは仕方ありません。しかし、問題になってくるのはお金です。2人で働いていけば住宅ロー ンの返済も生活費も貯蓄も問題ないはずでした。しかし、働き手が私1人になると話が変わって きます。毎月毎月赤字が続きます。エクセルで簡単なキャッシュフローを作り、収入と支出を計算していきます。画面を見てげっそりしました。何度見ても、何度計算し直して毎月大きな赤字 になるのです。このまま赤字が続けば預金がどんどん無くなり、家を手放すことは簡単に想像で きました。

より一層節約が厳しくなります。ちょっとした電気の消し忘れで大げんかになる始末です。金銭 的に余裕がなくなると、精神的にも余裕がなくなります。私も奥さんも常にピリピリしていまし た。ことある毎に大げんかになります。あまりにもケンカを繰り返すの日々にうんざりし、つい に奥さんが「あんたが家を買うなんて言うからこんなことになった!」と言い出しました。私は 「お前がメンタル弱くて仕事辞めるからだろう!」と喉まで出かかっていましたが、その言葉を グッと飲み込みました。現状でも体調を崩して家事もろくにできていない状況でした。その上傷 つけるようなことを言うと、もっとひどいことになると思ったからです。

 

「自分がしっかりしなければ。なんとかしなければ。」

 

支出を減らすのは限度があります。収入を増やすしかないと思いました。私の実家はそれぞれで 精一杯、奥さんの実家とは関係が悪くて疎遠です。頼るところはありません。仕事に慣れてきた ので少し休む日を増やしていましたが、再び以前のようにがむしゃらになって働きました。稼い でくるしかないのです。朝は5時や6時に起き、営業や集客について学び、朝の7時には会社へ出 勤して働き、夜も遅くまで働きました。体調の悪い奥さんから仕事中に度々連絡があり、その対 応もしながらです。

努力の甲斐あってか、数ヶ月後にはそれまで共働きで稼いでいた金額と変わらないくらいの金額 を1人で稼げるようになりました。また、ある程度安定して収入を得られるようになったので週 に1日は休めるようにもなっていました。

 

独立、そして鬱へ

 

その頃、私は東京海上日動の子会社の代理店の社員として働いていました。東京海上日動へ勤め だしてから9ヶ月ほどしたときに、徳島県でもかなり大きな代理店がコンプライアンス違反によ り代理店資格を剥奪されるという事件が起こりました。その契約を子会社の代理店へ移すことに なるが、契約件数が多いため今子会社にいる人だけでは対応しきれない。だから、そこで働いて くれないかという打診があったからです。私は独立したいという希望があったので「将来的に独 立をしてもいいということなら。」ということで代理店研修生をやめ、子会社の代理店の社員に なっていました。

今でこそ当たり前になりつつありますが、「ほけんの窓口」のように、たくさんの保険会社の商 品を比較して、その人に一番有利な保険を提案するというスタイルの保険販売のことをちょこち ょこ聞くようになりました。

私は保険の営業マンというよりも、ファイナンシャルプランナーとして活動しているという自覚 がありました。ファイナンシャルプランナーのテキストに書かれていた「顧客利益の最大化」と いう言葉に強く共感していたからです。

しかし、自分の立場はあくまで東京海上日動の代理店です。そのため、提案できる保険商品は東 京海上日動のものしかありません。保険の種類や保障内容によっては、他の保険会社の方が保険 料が安いケース、同じ保険料を払うにしても他の保険会社の方が保障が充実しているケースがあ ります。もちろん、東京海上日動の保険が一番有利なケースもありましたが。

ファイナンシャルプランナーを志して勉強してきたが、現在自分は「顧客利益の最大化」は実現 できていない。でも、他の保険会社の保険を提案したところでクライアントは喜ぶにしても、そ こから収入を得られないのでボランティアになってしまうというジレンマを抱えるようになりま した。

実際に、自分の実入りは無くてもいいからという判断で、複数の保険を扱える知人にクライアン トを紹介していたこともあります。

しかし、それは面倒ですし「稼ぎたい」という気持ちに反してしまいます。

「自分も複数の保険会社の保険を扱えるようになりたい」そう思うようになりました。東京海上 日動の代理店が他の保険会社の保険を取り扱うことはありませんから、ほけんの窓口のようなと ころへ就職するか、それとも独立するかという選択になります。

私が26歳の時でした。その年の11月には一人目の子どもが産まれる予定でした。そのタイミン グで訪れた葛藤です。「独立したい。」「でも、失敗して奥さんやこれから産まれてくる子ども を路頭に迷わせてしまうことになるかもしれない。。。」「でも、今の環境だと自分が納得でき る仕事はできない。」

そんな考えが毎日毎日、頭の中をグルグルしていました。

私は独立する道を選びました。「納得して働きたい。」「顧客に一番有利な提案をしたい。」と いう気持ちの方が強かったからです。

東京海上日動の代理店研修生時代の先輩で、一足早く複数の保険会社を扱う代理店に所属してい た知人を誘い、2人で事務所を立ち上げることにしました。

2010年の12月、独立するという夢を果たすことになります。

2人で事務所を立ち上げることになるので、事務所開設にかかる費用などは当然折半です。在庫 を抱えない仕事ではありますが、事務所を借りる費用やデスク、来客用のテーブル、パーティシ ョン、プリンタに書類ケースなどなど、たくさん買いそろえる必要がありました。当時の預金は120万円ほどで、事務所開設費用に折半して100万円以上かかりました。残高が20万円ほどしか ない上に、独立してすぐは収入がありません。そんなときにクレジットカードの請求が25万円来 てしまいました。慌ててリボ払いへ変更して事なきを得ましたが、独立後数ヶ月は本当に綱渡り でした。

「失敗するわけにはいかない」という強烈な思いの元、今まで以上のペースで働きました。朝6 時には起きて勉強をし、8時前には出社をして仕事をしていました。さらに、産まれて数ヶ月が 夜泣きで起きてくれるので睡眠不足もありヘロヘロでした。でも、弱音を吐いている場合ではあ りません。顧客に会う時間の合間合間などで睡眠を取るなどしてなんとかしのいでいました。

たくさん働くこと、そしてマーケティングやコピーライティングなどを学び、収入は順調に伸び ていきました。独立した年から800万円、1,200万、1,500万、1,800万円と増えていきました。

収入がドンドン増えて行くにつれ、「これでやっとお金の不安や問題とはおさらばできる!つい に自分は成し遂げたんだ!」そんな思いを抱いていました。

 

しかし、実際は全然違いました。

 

「お金は使わない方が良い」「お金は貯めておくべきもの」私はこの考えをしっかりと握ってい ました。しかし、奥さんが仕事を辞めて住宅ローン返済に困りそうになった時から、節約生活、 つまり我慢をする生活をしていました。我慢するということは、欲しい気持ちを抑圧するという ことです。抑圧したものはいずれ爆発します。そこにたくさんのお金が入ってくると、どうして も使ってしまうのです。

「必要だから。」「頑張った自分へのご褒美。」「いいものを持つと収 入が増えるって聞いたから。」など、たくさんの理由をつけて星胃を思うものをドンドン買いま した。買った瞬間は気持ちよく楽しい経験です。しかし、「お金は使わない方が良い。」「貯め ておくべきもの。」という考えを持っているが故に、楽しい気持ちが落ち着くと今度は罪悪感に 襲われます。また、自分がファイナンシャルプランナーとしてお金を使う計画性などを伝える仕 事をしていることが拍車をかけます。

稼ぐ量に比例して、使う量も増えていきました。

満たされていない「認められたい」という気持ちを満たすため「ベンツ」「ブランド物のスーツ やコート」「一流メーカーの限定バッグ」など、派手な物を買い、「たくさん稼いでいる」「成 功している」というのをアピールしようとしていました。

当然預金は増えません。貯めることができない自分に「なんでこれだけ稼いでいるのに、これだ けしか貯められないんだ!」イライラしてもいました。

サラリーマンではないので収入も確実ではありません。大きな契約が落ちたり、もらえるはずだ った契約が白紙になったりしたときは、大きく焦り、サウナでも入っているのかというくらい冷 や汗をかき、体温も2度くらい下がっていたと思います。「この収入を得られなくなったらどうしよう。」という今まで経験したことのない不安を覚えるようになります。

この不安は収入が増 えれば増えるほど大きくなります。「収入が減ったらどうしよう。」絶えずその考えが頭の中に あります。「マイホーム」「ベンツ」「成功している人というレッテル」「欲しいものが買える 生活」これらの物を失う不安、恐怖にずっとさいなまれていました。

「お金が無くなるのが怖い!」 「人間のクズになってしまう!」 「殺してやりたいとまで思った義父と同じ事になってしまう!」 小さいときの記憶が蘇ります。 「もうあんな惨めな思いはしたくない!」

その上に、いつどこで誰から電話があるかわからないという状況、元々苦手な上にコンプライアンスに厳しい保険会社が求める煩雑な事務処理手続き、ストレスと疲労で仕事の精度が落ちたおかげで発生する度重なるクレーム。これらが不安な気持ちに追い打ちをかけていました。

携帯電話が鳴るのさえ怖く、鳴ると「何か怒られるんじゃないのか」と不安になり、出たくない のです。しかし、出なければまたクレームになります。

そんなことから、私は仕事の楽しさをも失っていました。「やりたくない」「逃げたい」「電話に出たくない」そんな気持ちでいっぱいでした。でも、収入が減ることの恐怖、手に入れた物を失う恐怖、家族を路頭に迷わせてしまうかもしれないという恐怖、また惨めな思いをしなければいけないという恐怖から、毎朝襲ってくる吐き気を抑え、這いつくばるようになんとか仕事をしていました。

全てを手放してみる

「なんとかしなければ。。。」「このままではいけない。。。」

私は何か問題を抱えると、解決策を求めて本屋さんに行く習慣がありました。その時抱えている 問題の解決に役立つ本がないかどうか探すのです。

「気持ち悪い」「もうなにもしたくない」

そんな思いを抱えたまま本棚を眺めます。すると「君は一万円札を敗れるか?」(苫米地英人 著)という本が目に留まりました。

「は?どういうこと?」タイトルがあまりにも衝撃的すぎて思わず手に取り、その場で少し読ん でみます。すると「お金には価値がない」ということが書かれていました。それまで「お金」に 価値を感じて、集めて守ることに集中してきた、それに人生を捧げてきたといっても過言ではな い私にとっては青天の霹靂とも言える言葉でした。

その本をレジまでもって行き、購入し、すぐさま読みました。「お金には価値がない。本当に価 値があるのは商品やサービスの方だ。」この言葉は私のお金に対する認識を大きく変えてくれま した。そして、実際に1万円札を破ってみました。お金の象徴でもある1万円札を破ることは、私 にとってとても勇気のいることでした。しかし、実際に破ってみると気分爽快で、お金の呪縛か ら解き放たれたような気がしました。「これでもう大丈夫かな。」

それも長くは続きませんでした。現状は何も変わっていないからです。やはりお金やそれまで得 た物を失う恐怖にさいなまれることになります。

そんなとき、読んでみた「君は一万円札を破れるか?」の本はまともな本だったんだろうか?と 疑問に思い、仕事が終わって自宅へ戻った後、Amazonのレビューを読んでいました。

すると、こんなレビューを見つけました。

「この本に対する回答が、ザ・マネーゲームから脱出する法という本に書いてある」

「マネーゲームから脱出する?一体何のことだろう?」気になった私は翌日、徳島県内で一番本 の品揃えがいい、徳島そごう7階にある紀伊國屋書店へ向かいました。ビジネス書、自己啓発書 の周辺を探していると見つけました「ザ・マネーゲームから脱出する法」立ち読みしてみます。 頭から読まず、パラパラとめくってみます。目に飛び込んできた文字「この本はビジネスをうま くやって収益を増やしたり、投資や貯蓄のことについて書かれているわけではない」という文章 に心惹かれて買うことにしました。もう、それらのことは散々取り組んできてウンザリしていた からです。

その日は何もせず、ただひたすら本を読んでいました。しかし、書いてあることが意味不明すぎ て全然理解できないのです。

「この世は幻想だ。全てホログラムだ。」
「あなたの仕事や経済的活動からお金を得ているわけではない。」
「お金は無限にある。やりたいと思ったことだけやりなさい。」
「あなたは本来のあなたではない。本来のあなたは無限に豊かな存在だ。」

「億万長者が良くて、ホームレスが悪いわけではない。」

「湧き上がってくる感情を感じきりなさい。」
「全てあなたが創り出している。全てに感謝しなさい。」
「??????????」

ちんぷんかんぷん過ぎて、全然読み進められません。読んでは少し戻って意味を再確認しながら 進む、意味不明すぎて強烈な眠気に襲われて寝るということを繰り返して読んでいました。

読み終わりましたが、内容は5%も理解できていませんでした。「この著者はキチガイじゃない のか?」とまで思いました。今まで私が信じてきたこと、世間で言われていることとは真逆のこ とが書かれていたからです。

でも、その本が無性に気になり、もう一度読むことにしました。しなければいけないこと以外は その本を読む事に時間を割きました。二回読み終わりました。まだまだ理解できません。でも、 まだその本のことが気になって読みたいと感じたのです。もう一度読みました。何度も睡魔に襲 われながら。

三回読み終えたときです。本の内容は相変わらずほとんど理解できません。しかし、こんな考え が浮かびました。

「この本に書いてあることが本当かどうか、自分の人生を使って実験してみよう。」

具体的には「お金が無限にあるんだったら、やりたくないことなんてやらない。やりたいと思っ たことだけをやる。」ということです。

「やりたくないことをやらない」そう考えて真っ先に思い浮かんだのが仕事でした。いつどこで 誰から電話がかかってくるかわからない気が抜けない状況、煩雑な事務処理手続き、契約を取り 続けないといけないプレッシャー、自分に非のないトラブルで頭を下げること。

「お金が無限にあるなら、こんなことはやらない!でも、本当にやめて大丈夫だろうか・・・」 と思っているとき、あり得ないトラブルが起きて大きなクレームになり、いろんな人に平謝りす るということが起きました。その出来事が起こってくれたおかげで「もう自分はこの仕事はでき ないな。」と辞める決断をすることができました。

その後、奥さんにそれを伝えます。朝9時頃、仕事をするために事務所にいましたが、「今、奥 さんに伝えよう。」と思ったので、奥さんに電話をし、10時に家から車で15分くらいの距離にある「花杏子」というカフェで待ち合わせをすることにしました。カフェは比較的年季が入った カフェで、ログハウスのような内装ですが色合いは落ち着いた濃い茶色、山間の中にあり、大き な窓からは緑に生い茂った緑が見えます。

店の隅にあるウォールナット色、4人掛けのテーブルに向かい合って腰掛けます。

「もう仕事はやりたくないから辞めようと思う。」奥さんはビックリしていました。もちろん今 後の収入、生活のことを心配するでしょう。私は「ザ・マネーゲームから脱出する法」の本の内 容を理解している範囲で伝えました。「お金は無限にあると書いている。この本に書いているこ とを実験してみたいと思う。」少しの間奥さんから返事はありませんでしたが、「やりたいと思 うならやってみるといい。止めてもやるって言うだろ?」と言ってくれました。

私はその日から仕事を辞める準備を始めました。契約の引き継ぎや代理店の廃業の届け出などを
行います。

そして、2014年6月1日、私は無職になりました。

無職から年収6,000万円に

お金を使いまくり、不安な気持ちと闘う日々

 

「お金は無限にある」

その言葉の元、無職になった次の日から沖縄へ1週間旅行へ行くところからはじめ、私はとにか くやりたいことをやりまくり、欲しいものを買いまくりました。生まれて初めて値札を見ずに買 い物をするということを経験しました。

無職になってから1ヶ月は本当に楽しい気分でした。

「もう我慢しなくていい。」
「やりたいことをやらなくてもいい。」
それまでお金のために我慢し、やりたくないことをやり続けていた反動もあり、解放感に満ちあ
ふれていました。

自分の人生を取り戻した

これは今でも鮮明に覚えています。無職になって1ヶ月ほどしたときです。

家から車に乗り、近くのローソンへ買い物に出かけました。車もあまり通らない片側1車線の田 舎道を時速50km/hほどで走ります。周りはほぼ一面、田んぼ、畑、背の低い山々、たまに住宅 がある。そんな風景です。この家に住んでから6年、数え切れないほど通った道、数え切れない ほど見た景色です。その景色が突然キラキラと輝いて見えたのです。まるで、宝石店のショーケ ースを見ているのかというくらい輝いていました。その瞬間なぜか「ようやく自分の人生を取り 戻した」そんな気になりました。

砂時計のごとく無くなっていくお金

お金のことを気にせずに使いまくるので、当然預金残高はどんどん無くなっていきます。無職に なる直前、全てのお金をかき集めて400万円預金がありました。その預金がドンドン減っていく のです。それを目の当たりにすると、みぞおちのあたりにずっしりと重くうごめく気持ちが表れ ます。不安です。

「とにかく、湧き上がる感情を感じ切れ!」

愚直に実践します。気持ちが表れているみぞおちのあたりに意識を集中します。気持ちが現れ て、それを感じ切って終わりではありません。何度も何度も現れます。感じ切って終わったと思 ったら数秒後には同じ様な気持ちがまた現れます。それをまた感じ切るということをひたすら繰 り返していました。

砂時計のように一方的に減り続ける預金残高を見る度に、お金が無くなり続けること、お金が無 くなって家も車も失い、家族を路頭に迷わせるようになった時のことをイメージする度に、強烈な気持ちがわき上がってきました。あまりにも不安な気持ちが強烈すぎて、吐きそうになったこ とも何度もあります。

「まだそれが起こったわけじゃない。今破産しているわけではない」そう思っては深呼吸して意 識を今この瞬間に置くことを繰り返していました。

「預金残高や自分の行動が豊かさの源泉ではない。お金は無限にあるんだ。」そう信じて、ただ
やりたいと思うことをやり、欲しいと思うものを買い続けました。

こんなことを実践している人は周りにいません。誰かからアドバイスを受けているわけでもない ので、「これで合ってるのだろうか?」と相談することもできません。そのことも不安を強力に する要因でした。たった1人で実践していました。吐き気を催すくらいの不安を何度も感じなが ら。

ついにお金が無くなる…! 「お金は無限にあることを照明する」

実験開始から8ヶ月、ドンドンお金は減り続け、ついに預金残高は50万円になりました。住宅ロ ーンもベンツのローンもあります。このままの生活を続けていたらもってもあと1~2ヶ月です。

その時です。それまでずっと私を襲い続けた強烈な不安がフッと無くなったのです。なぜ無くな ったかは分かりません。でも「なんか、もう大丈夫かな。」と自然と思えたのです。

それから程なくして、お金がまるで決壊したダムのごとく大量に流れてくるようになったので す!私は一体何が起こったのかわかりませんでした。それまでと違うことは何もしていません。 ただ、ドンドンお金が入ってきました。2015年の2月。その1ヶ月だけで約600万円のお金が入っ てきました。

どんな経緯でお金が入ってきたのか?

 
大量のお金は空から降ってきたわけではありません。頭で納得できる道筋をたどってやってきま
した。
実験の柱は「やりたいと思ったことをやる。」でした。

実験開始から2ヶ月くらい経った頃です。無性に「ブログを書きたい!」という気持ちになった のです。しかし、ブログは以前から仕事で利用していました。前やっていたことと同じ事をやる ことに抵抗を覚え「いや、それは前にやってたことだからもうやらない。」と、やりたいという 気持ちに逆らっていたのです。

それから1週間くらいずっと「ブログを書きたい!」という気持ちが収まらない状態が続きまし た。あまりにもその気持ちが強烈なので「わかったわかった。ブログ書くから。」とブログを書 くことにしました。

「何を書こうか?」と考えて思いついたことが「自分が今まで専門にしてきたマイホーム購入、 住宅ローン、保険について書こう。」というものです。これらのことは、何年も前からブログに 記事を書いていました。しかし、情報を小出しにし、お金を払ってくれた人にはしっかりとした 情報を伝えるという書き方でした。しかしその時は「お金が無限にあるとしたら、わざわざ情報 を隠す必要もない。自分が知っていることを全部書き出して、それを見た誰かの役に立てばい い。」と思いました。

そこで、マイホーム購入や住宅ローン、保険の自分が得意とすることについて、自分が知ってい ることや経験して学んだことを全て書き出し、問題を抱えた人がその記事を読めば1人で問題を 解決できるようにしました。

1つのテーマについて、ブログの文字数は5,000文字から20,000文字になりました。今まで書いて いたのは1つのテーマにつきせいぜい1,000文字程度だったので、5倍~20倍の情報量です。ま た、知識が無い人でも自分で問題を解決できるように、画像や絵を使った説明を入れたりしてい ました。そのため、1つの記事を完成させるのに少なくても7~8時間、長いときはそれにかかり きり3日以上かかったりしました。

でも、この作業がすごく楽しかったのです。文章を書いているわけですが、なにか一つ一つ丁寧 に作品を仕上げているような感覚でした。記事を書き上げた後はものすごい達成感がありまし た。

実験開始前、私のブログへのアクセスは最大で1日500人くらいでした。これも、ブログを始め て、ブログのアクセスアップ方法などをあくせく学び、実践して4年くらいコツコツ続けてこれ くらいのアクセス数でした。

それが、作り上げた作品を公開していくということを続けていく内に、1日5,000人~6,000人と いうアクセス数になり、お金が無くなりかけた頃には最大で1日12,000人のアクセスがありまし た。

「すごいなぁ~!こんなにたくさんの人が見てくれてるんだ!」ただそれが嬉しかったのです。

アクセスが5,000~6,000人になった頃くらいから、1ヶ月に1~2件、「マイホームを買うのでア ドバイスをしてもらいたい」というコンサルティングの依頼を受けていました。それは収入には なりましたが、やりたいことをやりまくり、欲しいものを買いまくっている状態の支出を上回る ことはなく、預金を減らし続ける状態に変わりはありませんでした。

特別なことはしてません。何も変えていません。でも、2015年の2月から、コンサルティングの 依頼が殺到するようになったのです。メールボックスを開く度に「コンサルティングをしてもら いたい。」というメールがたくさん届いていました。

私は「まぁ、偶然で来月になれば落ち着くだろう。」と思っていました。600万円近くのお金が 入ってきたので、またしばらくはやっていけると思って安心していました。ところが、来月にな っても、再来月になってもその勢いは止まりませんでした。毎月400万、500万という金額のお 金が入ってきていました。50万円しかなかった預金残高ですが、たった3ヶ月後には1,000万円を 超えていました!

その勢いは衰えず、その年の年収は5,000万円を超え、その翌年は6,000万円を超えました。

私は「ようやくお金の苦労や不安から解放されたんだ!」と思い、天にも登るような気持ちでいました。

これまで以上にお金をどんどん使いました。200万円のテレビ、400万円のスピーカー、キャバクラで一晩に100万円使う、旅行に行きまくる、買った車をすぐ売ってポルシェを買ったり、かと思ったら1,000万円の車買ったりとやりたい放題でした。

止まらない坂道

6,000万円の収入を記録した次の年、思ったようにお金が入って来なくなりました。結局その年の収入は前の年と比べて半分の3,000万円。これでもまだ多い方なんですが、私は入ってくる収入が減ることにとてもおそれを抱いていました。私の中のお金の問題は完全に解決した訳ではありませんでした。やっぱり入ってくるお金のことを気にして不安になっているのです。何も変わっていませんでした。

この時、私はとても葛藤していました。今の収入を維持してまた増やすために行動するか、それとも引き続き「やりたい」と感じたことをやる生活を選ぶか。

それまで通り、ファイナンシャルプランナーとしてコンサルティングを受けていけば、その活動をどんどん続けていけば収入を維持、増やすことはできたかもしれません。しかし、この時私はファイナンシャルプランナーとして、資金計画を立てたり住宅ローンや生命保険の見直しのアドバイスをすることに楽しさを感じていませんでした。

それよりも、私に大きな収入をもたらしてくれた(と当時は思っていました)スピリチュアルな教えをもっと深めたり、それを人に伝えたい。そして、たくさんの人が自由にやりたいことをやって生きていく姿を見たいと思いました。

葛藤をしていたので、お金を稼ぐための行動を取ったり、やめたりを何度かしましたが、最終的にはやりたいと感じたことに舵を切ることにしました。

坂道を転がり続ける

それでも、収入はどんどん減っていきます。毎日不安で不安でたまりませんでした。不安だけではなく、とてつもない怒りも湧いてきていました。

「散々持ち上げて今度はたたき落とすんか!人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」という考えと怒りの気持ちが噴水のように湧いてきて、半日くらい自室で喚き散らしていたこともあります。

ひどい時には「もう殺してほしい、」とまで思うほどでした。

私は、なんとか立て直したいと思い、今まで学んだスピリチュアルな実践を続けていました。感情を感じ切ったり、意図したり、いい気分でいるように心がけたり、今この瞬間に意識を向けるようにしたり。

それでも、坂道を転がり続ける状態は変わりませんでした。

原因の一つに気づく

坂道を転がり出して3年ほど経った時、ついに預金残高が18,000円にまでなりました。もうその月の支払いはできません。ずっと奥さんには心配をかけないように、好きなようにしてもらいたかったのでお金のことは一切話していませんでした。言えなかったというのもあります。でも、もう無くなったので無くなったので言うしか無いと思い、思い切って打ち明けました。

その時はもう、悔しくて情けなくてボロボロ泣きながら話しました。何度も何度も謝りました。自分が本当にどうしようもない人間のように思えていました。

その月の支払いは奥さんが残してくれていたお金があったのでなんとか凌ぐことができました。それから、夫婦で買っていたフランクミュラーの時計も売りました。

それから少しして、私はとても大切なことに気づきました。

「自分には自信がなかったんだ。」

私は自身があるようにずっと振る舞っていましたが、実際は自信がなかったことに気づきました。自信がないから、その埋め合わせをお金で買えるものでしていたのです。高級車、高級ブランドの靴、お金持ち、成功者というレッテル、大きい家、贅沢なライフスタイルなどなど。

世間一般的に「すごい」と言われているものを身につけることによって、空っぽの自信を埋めていたのです。

しかし、収入が激減して坂道を転がり続けることで、ハリボテの自信が見事に剥がされてしまいました。私は自信のない素の自分自身を見たくなかったんだと思います。

自分には自信がなかった。それに気づいてからは「私は大丈夫。」ということを口癖のように言い、根拠のない自信を身につけることに成功しました。

そのおかげか、それまではあんなに不安で嫌で嫌でたまらなかった、お金や今まで手に入れたものを失うことが、今では「無くなってもまぁ大丈夫かな。」と思えるようになりました。実際無くなったら凹むとは思いますが、そこまで引っ張らないと思います。

お金の問題の最大の原因

お金が底をついてから、ちょっと働いたりしましたが、すぐまた元の生活に戻りました。ちょうどコロナが始まって子供が学校を休みになったので「子供とこんなに一緒にいられるのはもう最後かもしれない。」と思い、またその日したいことをする生活に戻ってきました。

コロナのおかげでたくさん旅行にもいきました。給付金や支援金もたくさんもらいました。そんなこんなで、すごく余裕がある訳ではないですが、その日その時やりたいことをやって生きる生活ができていました。

新しい家に引っ越してから、奥さんがブリーダーをして子犬を売っているのですが、コロナ禍の影響で犬の値段が高くなっていました。そのおかげで、子犬が売れたら生活していけるぐらいの収入になっていました。

数匹の雌犬がコンスタントに出産をしてくれれば、問題なく生活していけるはずでした。

しかし、そうはいきませんでした。ある時、3匹の雌犬が繁殖期を迎えていました。3匹妊娠して5匹ずつでも産んでくれれば、十分な収入になります。平均したら1回あたり5匹くらいだからです。

結果、1匹は想像妊娠、1匹は受胎なし(しかも交配に10万円かかる)、1匹は出産したものの1匹だけ(しかも交配に15万円かかる)。

この出来事はもう、完全に息の根を止めに来ているように感じました。奥さんも一生懸命世話をしてこの結果ということもあり、ボロボロ泣いていました。私も梯子と外されたような気がして愕然としていました。

「もう諦めよう。」そう思って腹を括りました。家や車、他にも手に入れた物質的なものは全て失うかもしれないなと覚悟しました。

そんなある日、ふとこう思いました。
「待てよ。子供の時からずっとお金の問題を解決したい、お金の不安を解消したいと言っていたけど、お金の問題があるっていう考えがそもそも問題なんじゃないのか?」と。

お金の問題があると考えるから、それを解決するために四苦八苦するのです。そして、ずっとお金の問題があると思っているから、何をどうやってもお金の問題がある状態になるんだと思います。

お金の問題を解決しようとすること、それが問題を生み出しているんだと気づきました。

下り坂が気づかせてくれたこと

それからはもう「どうにでもなれ。」と開き直っています。お金はかなりギリギリですが、精神的にはとても落ち着いています。時折不安になることはありますが、それに影響されて行動が変わったりすることはありません。

またある時ふと「もうお金なんて稼がなくていいんじゃないかな。」と思いました。それから、お金をもらうもらわないなどに関係なく、したいと思ったことができるようになりました。

とても大きな安心を感じることができています。以前の精神状態で今の状況に陥ったら、気が気じゃなかったでしょう。

とても大きな大きな、長い下り坂を下ることで、私は大きな安心を得るというかそれに気づくことができました。安心は自由につながります。恐れを抱いているとしたいようにはできません。

また、条件がついている自由も本当の自由ではありません。お金があるから自由だと考えるならば、お金が無くなれば自由ではなくなります。自由は失いたくありません。そうなると、お金が無くならないかどうか不安になります。本当にしたいことがあっても、お金のことを気にしてできなくなったり、したくないことでもお金のことを気にしてやってしまったりということになります。これは偽物の自由です。

私は本当の自由に気づかせてもらいました。それは、何の根拠もない、ただ自由です。何の判断も名称もない、そのまま。これこそが本当の自由です。長い下り坂はとても貴重なことを気づかせてくれました。

もしかしたら、お金がなくなって、手に入れたものを全部没収されるかもしれません。それでも後悔は微塵もありません。同じ人生をもう一回生きるとしても、同じ選択をするでしょう。「自由を選択する」本当に素晴らしい決断でした。