あなたが見るもの、聴くもの、触れるもの、認識できるものは全てあなたの虚像であり表現だ。ということは、あなたは「すべて」だ。
あなたにやってもらいたいことがある。
「ない」ものを想像してみて欲しい。
できただろうか?
できないはずだ。なぜなら、想像した時点であなたの頭の中にイメージとして存在するからだ。もう一つやってもらいたいことがある。
何かが「ない」と言ってみて欲しい。なんでもいい、たくさん言ってみて欲しい。
- お金がない
- 水がない
- 食べ物がない
- 家がない
- 車がない
- スマホがない
- スキルがない
- 甲斐性がない
- etc…
何に対しても「ない」ということができるだろう。しかし、何かが「ない」というとき、その「何か」がなければ「ない」と言えない。
例えば、「お金がない」というとき、お金の存在自体がなければ「お金がない」とは言えない。この世にお金というものが存在していないと「ない」とは言えない。
ということは、「ない」は「ある」ことが前提になっている。そして、「ない」ものは想像することすらできない。ということは「ない」が「ない」のだ。
「ない」が「ない」ということは、「ある」だけが「ある」ということだ。
「ない」というのは錯覚であり、実際は「ある」だけがある。
何かについて「ない」と考えてしまうとき、正確にはそういう考えがやってくるとき、それは錯覚だということを思い出して欲しい。「ない」は「ない」のだ。
上に挙げたリストから「ない」を取り払うとこうなる
- お金
- 水
- 食べ物
- 家
- 車
- スマホ
- スキル
- 甲斐性
すべてあなたが写したものだ。あなたから写されたものだ。それを持っていないとしたら、写すことはできるだろうか?ということは、あなたが「ない」と錯覚するものも、実際はすでに持っているということではないだろうか?
すべてであるあなたが持っていないものなどあるだろうか?