子猫が死ぬかける原因と私たちの失敗の共通点とは?

「は?え?」
思わずこぼれた言葉でした。

奥さんが犬を検診してもらうために動物病院へいきました。
帰ってきたので出迎えると猫をつれていました。

なぜ猫がいるのかと事情を聞くと、動物病院の待合室で知らないオバハンから紙袋に入った猫を2匹渡されて「姉ちゃん!これいらんで〜!」と言われたらしいのです。

オバハンの自宅で産まれていた子猫をいろんな人に配っていたのではないか?ということです。
「なんでやねん!」と思いながらも、人生に抵抗することはやめたので文句は言いませんでした。

奥さんは動物病院で、もう自分でご飯を食べられると聞いたのでもらってきたそうなんですが全然自分でご飯を食べられるような大きさではありませんでした。

そこで、子猫用の粉ミルクやほ乳瓶を買ってきて与えます。しかし、全然飲みません。それ以外に栄養補給する方法はありませんので、飲まないからと放っておいたら死んでしまいます。そのため、しつこく子猫の口をこじ開けてほ乳瓶を突っ込み、飲ませようとしました。それでも飲もうとしません。

何度も何度もやってみて、少しずつ少しずつ飲むようになりました。ホッと一安心です。その後はスポイトのようなものを買ってきて飲ませています。今はふやかした離乳食のようなものを1人で食べるようになりました。

「食べないと死ぬのに、こいつ何考えてんねん」と思っていましたが、これは私たちがよくやってしまう失敗と同じです。

私たちは自分の頭で考えて、いいことと悪いことを分類し、できる限りいいとされる経験を増やし、悪いと判断できる経験を減らしたいと思っています。しかし、致命的なことに頭で考えて判断しているいいことが本当に自分にとっていいことかどうかわかっていません。また、悪いと判断していることが本当に自分にとって悪いことなのかどうかわかっていません。

つまり、何が良くて何が悪いかもわかっていないのにいいことと悪いことを判断しようとしているということです。たとえて言うなら、

子猫もほ乳瓶を突っ込まれて何か気持ち悪い感じがしたのかもしれません。それを「悪い出来事だ」と判断してほ乳瓶を受け入れず、ミルクを飲みませんでした。気持ち悪いほ乳瓶を突っ込まれるという、子猫からすれば一見悪いような出来事も必要な出来事でした。そして、いやな出来事だと判断したままほ乳瓶を拒否し続ければ死んでいたでしょう。

起こる出来事に、いい悪いの判断をしないことです。そして、受け入れることです。受け入れるために役立つ考えは「自分に起こることは常に最善の出来事だ」という考えです。

起こることが常に最善であれば、先のことをあれこれ考える必要がなくなります。どうなっても、何が起こってもそれが自分にとって最善の出来事だということがあらかじめ分かっていたなら、先で起こることを考えて心配することに何の意味があるでしょうか?また、過去起こってきた出来事も最善の出来事だとすれば、過去を振り返ってあれこれ思い悩んだり後悔したりすることに何の意味があるでしょうか?

そして、「どんどんよくなっている。」という考えも役立ちます。常に起こることが最善であれば、あなたの人生はどんどんよくなっています。それに対して、いい悪いが分からない頭で良くなっているか悪くなっているか判断しようとするから混乱してしまいます。

身近な例でいうと、あなたがお子さんに野菜を食べさせるとき「身体にいいから食べなさい。」と言いますよね。それと同じです。不味いという一見すると悪い経験ですが、それはあなたにとって実はいい経験なんだよというメッセージですよね。

好き嫌いせず食べましょう。

P.S 風俗へ行くとき、いい悪いの判断をしないのは至難の業です(笑)

Let us know your thoughts about this topic

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です