ごめんなさいとは一体何か?

「謝れ!」
これは私が小さいときに散々母親から言われたことです。小さいとき、小学校に入る前から入った頃くらいですかね。
でも、私はどうしても謝るのが嫌だったんです。それでずっとずっと謝らずにいました。しかし、謝るまで話は終わりません。でも、何時間でも謝らずにいました。根比べです。母親は手を出してきます。それで、もう怒られたくなくて、泣く泣く謝るということをしていました。

さらにわけがわからなかったのが、謝った後で「何が悪かったかわかるか?」と聞かれることでした。そもそも悪いと思って謝っているわけではありません。そうしないと話が終わらないし、苦痛から解放されないから仕方なく謝るという選択をしているのです。しかし、ここでも何が悪かったかをいうまで話が終わりません。そこで私は、母親から言われたことを復唱するようにして、母親が言う事が正しいと肯定するようにしていました。

今振り返って思うのは、そんなことは本当にくだらないということです。

私に限らず、小さいときは「いい」「悪い」の判断はしておらず、ただ自分がやりたいと思ったことをやっただけです。しかし、大人は「いい」「悪い」の判断を死ぬほど持っています。子どもがやったことを大人自身の判断に照らし合わせて「それはいい」「それは悪い」と判断して、子どももそれに従わせようとします。

「ごめんなさい」というのは、「あなたの意向に沿えませんでした。」「あなたの期待に応えることはできませんでした。」という意味です。言ってしまえば他人基準です。どうしても謝るのが嫌だった小さい頃の私は、なぜそこまで謝りたくないのかわかりませんでした。でも、今ならわかります。「私は私の人生を生きます」という意思表示だったのです。

しかし、不幸にも母親から怒られることに耐えきれなかった私は自分基準という、自分しか持っていない大事な大事な物差しを捨てて、訳のわからない他人基準という物差しを使って人生を歩むことになってしまったのです。

自分の人生なのに、他人基準の物差しを使っていて幸せになれるはずがありません。いつまでも「正解」を探すことになってしまいます。探し求めていた正解はもう捨ててしまった後だったのです。

ごめんなさい、謝罪。謝罪とは罪がある前提です。罪とは一体誰基準なのでしょう?何処かの誰かが決めた「いい」「悪い」の判断に基づいていますよね。そこにあなたはいますか?

あなたがやりたいことをやった。自由にあなた自身を表現した。それに対して、誰かが何か言ってきます。それは、その誰かが、あなたの言動に対して「悪い」という物差しを持っていただけの話です。あなたがそれを受け入れる必要もなければ、それを聞いて謝る必要もありません。もちろん、思わず誰かに怪我をさせたとか、物を壊したりしたような時は謝ったほうがいいと思います。ただ、あなたがやりたいことをやりたいようにやっているのに、それを誰かに謝る必要もなければ、咎められる筋合いもありません。

それと、これはちょっと深い話になりますが、そもそもあなたが何か”した”のでしょうか?これを読んでいるのはあなたの人生という映画の登場人物としてのあなたです。映画の登場人物が何かするのは、一体何が原因なのでしょう?

映画の中で犯罪を犯すような役割を担う役者もいますよね。その役者は自分の意思で犯罪を犯したのでしょうか?犯罪を犯す役者の人が、「自分は人を殺してしまった」と罪悪感に駆られていたら、あなたはなんて声をかけますか?

罪を悪んで人を悪まずというのはこういう意味です。

あなたも悪くなければ誰も悪くありません。誰も責めなくて良ければ、あなたも罪悪感など感じる必要はないのです。気が楽になりませんか?

P.S 私の男性自身は、いつも表現されたがって固くなっています(笑)

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